受け取るのが苦手。自己犠牲的に与えてしまう。承認されたいから尽くしてしまう。過度に心配して手を焼いてしまう。

これらも「自己受容や自己肯定感」「不安や恐れ」と大きく関連していますよね。

自己受容ができていなかったり、自己肯定感がなかったりすると、与えているようで奪うんだなあと自戒も込めて思います。

「受け取るのが苦手」

これは、相手から「愛を与える機会」を奪っています。人は愛を与えた時に幸せを感じるとするならば、その幸せを奪っている。

つまり、愛を与えることと受け取ることはセットであるということですね。

だからこそ、受け取ることにも価値がある。受け取れる自分であるということは、与えていることでもあるからです。

自分は「愛を受け取る価値がない存在」だと思うことは、相手に「愛を与えられない無力な存在」だと伝えているようなものなのですね。

だからこそ、笑顔で「ありがとう(*^_^*)あなたのおかげで私はこんなにうれしい!」と伝えることが大事なんですね。

「自己犠牲的に与える」「承認がほしくて尽くしすぎる」

これは、「自分のために与えている」つまり、自分が価値のない存在ではないことの証拠がほしい、自分の価値を認めるために承認がほしくて与えている、というわかりやすいパターンです。

なので、認めてもらえないと不満が出てきます。与えたいから与えるという「無償の愛」ではなく、奪う愛になってしまっているわけですね。

「過干渉」「過度な心配」

親子間などでありがちでしょうか。

これは、相手が「自分でやるチカラ」「自分で決めるチカラ」などの自立を奪っている。また、信頼されていない、自分は何もできないというネガティブな信念ができてしまうことで、自分に対する自信や自己肯定感を奪っているといえるでしょう。

どうせ私は・・・と無気力になったり、自分の本当の気持ちが分からなくなったりすることもあるかもしれません。

何事も完全悪ではない

さて、ここまで「与えているようで奪っている愛」が悪者であるかのように書いてきました。

もちろん、そういう側面もあります。でも、ものごとには必ずさまざまな側面があるわけで、完全悪なわけではありませんね。

受け取るのが苦手だからこそ謙虚にもなれるし、たとえ奪う側面があったとしても、あなたが献身的に与え、尽くしたことで救われた人たちもたくさんいるわけです。

心配するからこそ守れるものもあるし、干渉した結果、自立が促されたりすることもあるでしょう。

愛からくる行動か?恐れからくる行動か?

ポイントは、その行為がどうこうではなく、その行為をあなたが満たされた状態でおこなっているのか、不安や恐れからおこなっているのか、ということですね。

だからこそ、自分はどんな状態だと満たされるのかをよく知り、理解し、自分の願いを叶えてあげることが大切。満たされた心から生まれた行為は愛でしかなく、その愛は伝播していくからです。

自分の心と向き合い、たくさんの気付きを得ていたいな、と思います。

今回お読みいただきありがとうございました(*^_^*)